渋谷暴動46年:黙秘する大坂被告 遺族「真相を」

2017/11/14 08:15 

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 1971年に過激派の学生らが警察官を殺害した「渋谷暴動」事件は、14日で発生から46年を迎える。今年5月に逮捕された中核派活動家、大坂正明被告(68)=殺人罪などで起訴=は黙秘を続け、46年にわたる逃亡生活は謎のまま。公判の日程もまだ決まっていない。事件の主導役とされる大坂被告の逮捕後初めての命日を前に、遺族は事件の真相解明を願う。【堀智行】

 日本海を見渡す新潟県佐渡市の長手岬に、渋谷暴動で亡くなった新潟県警の中村恒雄巡査(当時21歳、殉職後警部補に昇任)の墓は立つ。「46年も何を思い逃げてきたのだろう」。兄秀雄さん(74)はつぶやいた。

 71年11月14日、渋谷駅周辺。中核派の機関紙の号外に躍った「渋谷に大暴動を」の大見出しに呼応し、ヘルメットや鉄パイプで武装した約5000人の学生らが続々と集結していた。「権力の擁護者を殲滅(せんめつ)せよ」−−。「革命」を志す学生らが標的にしたのが機動隊だった。

 気勢を上げ、渋谷駅方向に進む中核派の学生ら約150人は渋谷・神山町で、新潟県警から応援派遣されていた中村巡査らの部隊に襲いかかった。「殺せ、殺せ」。暴徒と化した学生らは中村巡査を取り囲むと鉄パイプで乱打し、火炎瓶を投げつけた。この事件の中心にいた一人が、大坂被告だったとされる。

 中村巡査が重体との連絡を受け翌15日朝、秀雄さんと父は電車を乗り継ぎ東京の病院に駆けつけた。中村巡査は全身にひどいやけどを負っていた。「ツネ、父ちゃんと来たぞ」。呼びかけにわずかにうなずいたが、数時間後、息を引き取った。

 「誰が悪かったのでしょうか」。その晩、お悔やみに訪れた後藤田正晴警察庁長官(当時)に思わず尋ねた。当時、米軍の駐留を認めた沖縄返還協定の批准を阻止しようと学生らの運動は激化していた。「主張のために弟を虫けらのように扱ったことは絶対に許せない。一方、学生らを抑え込むだけでは、いつか暴発することも予想できたはず。どこかで折り合いをつけられなかったのか」。やり場のない思いがこみ上げた。

 警察官になって3年目。4人兄弟の末っ子は、いつまでも弟。幼いころのあどけない印象が強かった。だが事件後、同僚から「火炎瓶で火だるまになった仲間を助けるため、最後まで踏みとどまっていた」と聞かされた。初めて知る弟の芯の強さに胸が熱くなった。

 逮捕された大坂被告は、白髪が交じり、やせていた。中核派は毎年数千万円をかけ、かくまってきたとされる。大坂被告に日々の詳細な報告を求める一方、外部との連絡は制限。母親の葬儀にも姿をみせなかった。「(大坂被告は)社会の裏側で苦労もしたんだろう。親にも大変な思いをさせたはず。彼らがやりたかったことは何だったのか」

 秀雄さんは、警視庁のマスコットキャラクターになぞらえ、孫には中村巡査を「ピーポおじちゃん」と呼んで事件を伝えてきた。「こうした時代があったことを忘れてほしくない」。悲劇を繰り返さないために語り継ぐこと。それが弟への弔いだと思っている。

毎日新聞

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