AIで「老害化する若者」が増える? “手書き”の減少が及ぼす影響に順天堂大学教授が警鐘
手書きが減り、AIやデジタル活用が激増した影響は…(写真はイメージ)

【グラフ】寝る前の“手書き”日記、睡眠の質まで変化!?
■スマホやPCの“入力”と“手書き”、脳に及ぼす影響は何が違う?
順天堂大学医学部の矢野裕一朗教授は、医療のDX化やAI活用を推進するバリバリのデジタル派の研究者だ。そんな矢野教授の毎晩の日課は、意外にも「お気に入りのペンで日記を書く」ことなのだという。記録を残すならデジタルデバイスのほうが便利なはずだが、なぜ教授は「手書きの日記」にこだわるのか。
「同じ<文字を綴(つづ)る>という行為でも、デジタルとアナログのバリューは異なります。デジタルにおける『書く』とは、<入力→コンピュータによる処理・変換→選択→出力>というプロセスであり、効率的な<記号(データ)>として言葉を扱います。一方で手書きは、単に文字を書くだけでなく、豊かな記憶や感情の追体験ができるのではないかと私は思うのです」(矢野教授)
具体的な例を思い浮かべると、わかりやすいだろう。
「例えば、ペンでほんの一文字、『夏』と書いてみてください。さまざまな情景や思い出が脳裏をよぎりませんか? それは手書きという行為が、思考と手と文字がシームレスに直結した身体運動であり、脳内の神経ネットワークを強力に活性化するからです。この感覚はどのキーを打っても感覚が均一なタイピングでは、なかなか味わえないものです」(矢野教授)
教授によると、ノルウェー科学技術大学における脳波測定の研究でも、手書きが脳に与える影響が明らかになっているという。
「手書きは紙の抵抗を感じながら、文字の複雑な形状に合わせて指先の微細な筋肉を調整する必要があります。この複雑な運動は脳の運動野だけでなく、視覚野や海馬(記憶の中枢)、言語中枢など脳の広範囲な領域を同時に刺激します。
2023年にはほぼ100%の小・中学校で1人1台端末の導入が完了した。教師の発言や板書をノートに書き写す機会も減っているが、子どもたちに影響はあるのだろうか。
「プリンストン大学とUCLAが、講義のメモを<手書きする学生>と<デジタルで取る学生>を比較した有名な研究があります。今時の学生はタイピングが実に速いため、耳にした言葉を正確に記録できるものの、脳は情報を深く処理していませんでした。
一方、手書きではすべて書き写すのは不可能なので、脳が瞬時に情報を要約して優先順をつけ、自分の言葉で<概念を再構築>する必要に迫られます。結果、手書きした学生の方が記憶の定着率も理解度も圧倒的に高かったのです」(矢野教授)
デジタルは情報の保存に長けているが、内在化(知識として定着させる)にはアナログの方が効果が高いことが実証された形だ。
「昨今は板書を写真に撮る学生も増えていますが、記憶の定着という観点からはマイナスに働く可能性があります。これは単なる精神論ではなく、心理学で<写真撮影による記憶喪失効果>として知られる現象です。データに保存したことで安心感を得てしまい、復習をしなくなってしまうわけですね。大切なことは後から必ずノートに書き写すなど、アナログとデジタルの使い分けを提案したいところです」(矢野教授)
■ビジネスパーソンも他人事じゃない、デジタルが示すのは<誰もが到達できる正解>
スマホが常に手元にある現代、写真を撮って覚えた気になってしまうという勘違い現象にドキッとした大人も多いのではないだろうか。ビジネスパーソンならなおさら、デジタルツールやAIは、仕事や生活のあらゆる場面で切っても切り離せなくなっている。
「定型的な業務処理やミスのない遂行において、デジタルツールは最強のパフォーマンスを発揮します。とはいえ、デジタルの示す正解は<誰もが到達できるコモディティ化された正解>に陥りがちであるという側面も否定できません。
対して、アナログな個人的記憶や経験といった<独自の文脈(コンテキスト)>から引き出された言葉やアイデアには、他者には模倣できないオリジナリティ溢れる価値があります。処理速度を求めるならデジタル、独自の価値を創出するならアナログ。この使い分けこそが、ビジネスパーソンのパフォーマンスを最大化する鍵となるでしょう」(矢野教授)
子どもから大人まで、日々デジタルの恩恵にあずかる現代人。今は気にならなくとも、その影響が深刻化するのは高齢になってからかもしれない。
「脳科学には<使わなければ失われる>という鉄則があり、神経回路のシナプス結合も使わなければどんどん弱まってしまいます。特に手書きという高度なマルチタスク(指先の操作+記憶の検索+言語構成)をやめてしまうことは、脳への血流と刺激を遮断することに等しく、老化を加速させるリスク要因になります」(矢野教授)
アメリカのラッシュ大学では、高齢者を対象に6年にわたる追跡調査を実施。「読書」や「手紙を書く」といった行動を頻繁にしていたグループは、そうでないグループに比べて認知機能の低下スピードが約32%遅かったことが判明したという。
「これは<認知予備能>という考え方に基づくもので、日常的に脳(特に手書きによる言語野と運動野)を使っている人は脳のネットワークが強固なため、加齢による脳の萎縮が始まっても記憶や思考といった機能が維持できるのです」(矢野教授)
■AIの弊害が顕在化するのは5~10年後、“老害”が低年齢化する?
さらに興味深いのが、<スマホで文字入力している時>と<手書きで文字を書いている時>の脳血流を比較測定した研究だ。
「スマホ入力ではあまり働いていない脳の前頭前野が、手書きをしている時は活発に働き、血流量が増加していることが確認されました。思考やコミュニケーションを司る前頭前野は加齢とともに最も早く機能低下が始まりやすい部位であり、ここが衰えるとイライラしたり、怒りっぽくなったりと感情の抑制が効かなくなるのです」(矢野教授)
カスハラ(カスタマーハラスメント)は高齢者に多いという調査がありますが、昨今ではいわゆる“老害”的な行動の原因が、加齢に伴う前頭前野の衰えと関連していることが知られるようになった。この現状に対し、矢野教授は『数年後には老害の低年齢化がクローズアップされるだろう』と警鐘を鳴らしている。
「2025年の新語・流行語大賞にchatGPTの愛称である『チャッピー』がノミネートされたように、昨年はいよいよ生活の中にAIが浸透した年でした。AIの弊害が顕在化するのは5~10年後でしょうか。高度な効率化で前頭前野を刺激する機会が減り、老害化する若者が増えるのではないかと懸念します。実は私もここ数年、AIをフル活用してきたせいか、近しい周囲から『怒りっぽくなった』と指摘されて焦っています(汗)。毎晩、日記を手書きする習慣は前頭前野のトレーニングでもあるんです」(矢野教授)
矢野教授が習慣にしているのは、かつて留学していた米・デューク大学で実践されていた「感謝日記」と呼ばれるものだ。ルールはその日の生活で感謝したい対象を3~5個ノートに手書きするだけ。これがウェルビーイングに繋がるとして、アメリカのサイエンス系の大学でも取り入れられているという。
これに注目したのが筆記具メーカーのゼブラだ。2022年には矢野教授の監修のもと、24名の社員を被験者に4週間にわたる「感謝日記」の実験を行なった。その結果、<ポジティブ感情の増加>と<睡眠の質の良化>に有意的な効果が見られたという。
「矢野教授によると、人間は寝る前に『今日できなかったこと』や『明日の不安』を反芻しがちですが、寝る前に感謝すると脳のワーキングメモリをポジティブな記憶で上書きしてからシャットダウンさせるため、安眠に繋がる効果も指摘されているようです。調査終了後もの7割の社員が感謝日記を続けていて、とても有意義な実験になりましたね」(ゼブラ株式会社 代表取締役社長 石川太郎氏)
■手書きの機会が減少しても、なぜか売上は微増
ゼブラでは2016年より手書きの可能性を広げる研究に取り組んでおり、感謝日記もその一環として行われたもの。創業128年、サラサやマッキー、マイルドライナーなど数多くのヒット商品、定番商品を送り出してきたゼブラだが、デジタル化や少子化に伴う手書きの減少には、やはり危機感が…? と思いきや、「たしかに手書きの機会は減少していますが、売上自体はここ数年微増している」という。
「おそらく、デジタルの浸透によって、改めて手書きの価値に気づく方が増えているのではないでしょうか。創業から筆記具一筋でやってきた当社も、単なる記録するためだけの道具を超えて、創造性を高めたり、アイデアの源になったり、思考の整理にも役立つツールとしての筆記具の開発に取り組んできました。
記録するだけならデジタルが便利になった現代は、書くという行為の本質的な価値をアップデートする絶好のチャンスです。それが手書きの可能性を追求する研究に取り組んでいる最大の理由です」(石川社長)
ちなみに矢野教授によると、手書きの質は「道具、書き方、内容」に左右されるという。
「道具は快適な書き心地のペン。心地よさで脳がリラックスします。書き方はブロック体より筆記体、日本語ならきっちり書くより崩して続けて書くのも状況によってはよいでしょう。書く内容は記録的なメモより手紙的なものが望ましいので、感謝日記はぴったりだと思います」(矢野教授)
「ゼブラにはペン先のガタつきを抑えて快適に書ける『ブレン』というボールペンがあり、『気づくとブレンじゃないとダメになった』という声もいただいています。またボールペンの書き味を決めるインク、内部の機構も自社でゼロから作っています。こうしてニーズを細かく拾って生かしていけば、アナログの開発でもまだまだ付加価値を生むことができると考えています」(石川社長)
2025年2月に同社は、紙にも仮想空間にも手書きができる新技術「kaku lab.(カクラボ)」を発表。アナログとデジタルが敵対するのではなく、それぞれのメリットを組み合わせたまったく新しい手書き体験を開発した。矢野教授は「不可逆的にデジタルが発展するこれからの時代、最終的なアウトプットの質を高める鍵は<デジタルとアナログの融合>だ」と、その可能性に期待を寄せる。
「現代社会は、AIやデジタルツールによって最適解への到達時間を極限まで短縮することに成功しました。同時に、<速さ>と<深さ>は必ずしもイコールではないことに気づき始める方も多いのではないでしょうか。テクノロジーが進化すればするほど、人間本来の知的生産術を高めるアナログの価値は、ますます輝きを増していくと思います」(矢野教授)
(文:児玉澄子)
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