「あった!」引き揚げ船名簿に目をこらす元島民 思い出した白いパン

2025/05/27 09:15 

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 終戦後、北方領土から樺太経由の引き揚げ船で函館港に帰還した元島民の乗船名簿が26日、札幌市内で元島民の家族らに限定公開された。元島民ら関係者約60人は、セピア色に変色した名簿に目をこらし、当時の島での暮らしぶりや引き揚げの苦労などを思い出していた。

 閲覧会は、千島歯舞諸島居住者連盟関東支部が主催し、同日開かれた連盟の総会後に開催された。名簿は1947~48年に函館港に入港した日本船延べ16隻に乗っていた約8800人分に上る。

 「あった!」と叫んで、名簿で見つけた一家の人数をかみしめるように数えたのは、47年9月に択捉島入里節(いりりぶし)から家族7人で引き揚げた七飯町在住の宝金和江さん(92)。「札幌まで来て良かったね。感動」とめいのまさみさん(60)と抱き合い、目に涙をにじませた。

 宝金さんは名簿を見て「樺太まで行く船で出されたソ連のパンは硬くて食べられなかったが、引き揚げ船の徳寿丸で出された白いパンが柔らかくておいしかった」と当時の様子を思い出した。

 また「函館港が見えた時は皆で安堵(あんど)した」と振り返り、「また入里節の地で墓参りをしたいけど、できないのが切ないね」とも語った。

 国後島の礼文磯(れぶんいそ)から母が5人きょうだいを連れて引き揚げた角谷博さん(73)は、生前、引き揚げ体験を多くは語らなかった母から乗った船の名前や入港の日付も聞かされていなかった。

 それでも名簿を何冊もめくり続け、ようやく母の名前を見つけた。角谷さんは「本当に引き揚げてきたのだと実感がわきました」と胸をなで下ろした。徴兵された父は不在で、母は一人で子ども5人を連れて帰った。「我が子は自分で守りたいと必死だったと思う」と当時34歳だった母の姿に思いをはせた。

 「これを見るためにやって来たので、ほっとしました」と語ったのは、国後島から高倉山丸で47年9月に引き揚げた音更町に住む山本真智子さん(84)。「家族5人で引き揚げてきたが、いま生きているのは私だけ」と話す。

 当時は4歳で引き揚げの記憶はない。「樺太のトイレは板を渡しただけのもので、落ちたら命がないので、ひもにくくりつけられたそうです」と家族から聞かされたエピソードを語った。

 父と祖父母が国後島出身の札幌市の団体職員、松川紀之さん(53)は、自身のルーツを知りたいと考えて足を運んだ。松川さんは「名簿で23年9月に函館経由で引き揚げていたことが分かり、言葉にならない。父に北方領土のことを聞いてみたい」と語った。

 国立公文書館(東京都)に保管されていた名簿を見つけた歯舞群島・志発(しぼつ)島の元島民2世の三遊亭金八(本名・木村吉伸)さん(54)は「北方領土は日本人が開拓した日本の島で、日本人が住んでいた。名簿を保存するよりも先に、まず(あちこちで閲覧会を開き)活用したい」と話す。

 閲覧会は今後、函館市や根室市、東京都内などでも開催される予定。【伊藤遥、後藤佳怜、森原彩子、高山純二、本間浩昭】

毎日新聞

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