「必笑」お守り込めた思い 2人で挑む2度目のパラ 車いすカーリング

2026/03/08 20:36 

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 的確なショットに、戦略性の高いゲーム展開――。2006年の冬季パラリンピック・トリノ大会で目の当たりにした世界のレベルに2人の胸は高鳴った。そして、どちらからともなく、こんな言葉が出た。「この舞台に立つことができたらいいね」

 今大会から採用された新種目、車いすカーリング混合ダブルスに中島洋治選手(61)とともに出場している小川亜希選手(50)。小川選手が競技と出合うきっかけを作ったのが、「チーム中島」を裏から支える飯野明子コーチ(50)だ。

 小川選手は03年に長野県内のスキー場で転倒して脊髄(せきずい)を損傷し、下半身が動かなくなった。学生時代はバレーボールに打ち込み、一時は体育の教諭を目指すほどのスポーツ好き。カーリングなどさまざまな競技を楽しんできたが、一転して苦悩の日々が続いた。

 「もう1回カーリングできるよ。やってみようよ」。事故から1年がたったころに、飯野コーチからこんな誘いを受けた。当時勤務していた埼玉県鴻巣市役所の同僚で、バレーボール部でもチームメートだった。同年代で気も合った。飯野コーチは「また一緒にスポーツをやりたかった」と振り返る。

 車いすカーリングにはブラシで氷の表面を掃くスイープがないため、ショット後にストーン(石)の軌道を変えることはできない。2人はカーリングに比べ、より精緻なショットが試合を左右する奥深さに魅了されていった。週末には長野県軽井沢町のカーリング場まで赴く日々が続いた。

 トリノ大会には旅行で立ち寄った。観客の数に圧倒されつつ、選手たちの技術にも驚かされた。「私たちも挑戦したい」。趣味として始めたが、より高みを目指したいと思うようになった。

 それから4年後の10年バンクーバー大会。小川選手は念願をかなえ、4人制の車いすカーリング日本代表のメンバーとして臨んだ。その傍らにはトレーナーの飯野コーチの姿もあった。

 だが、結果は10チーム中最下位。飯野コーチは「右も左もよくわからない状態で行った。悔しい思いをした」と強豪国との差を痛感した。

 その後も世界の高い壁にはね返され続けた。それでも小川選手は飯野コーチから助言をもらいながら、持ち味の円(ハウス)内の狙った位置に石を正確に止める「ドローショット」など地道にスキルを磨いた。

 努力が実を結んだのが、25年3月の世界選手権。日本勢として初優勝を飾り、16年ぶりのパラリンピック出場権を得た。

 2人で挑む2回目の大舞台。試合会場に向かう飯野コーチのカバンには「必笑(ひっしょう)」と刺しゅうされたお守りが揺れる。飯野コーチは手芸が趣味で大会ごとに選手やコーチらにお守りを作って渡している。「必ず笑って最終日を迎えるという気持ちを込めた」と飯野コーチ。小川選手も「良い試合をして、笑顔で終われるように頑張りたい」と意気込む。

 1次リーグ突破に向け、負けられない試合が続く。【遠藤龍】

毎日新聞

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