「平和は守るもの」孫が解いた十字架 被爆語り知った対話の尊さ

2026/08/09 11:25 

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 爆風から自分を守ってくれた祖母は背中にやけどを負い、半年ほどして亡くなった。その負い目を感じ戦後を生きた。

 「祖母の命と引き換えに81年間、十字架を背負って生きてきた私の記憶はただの昔話なのでしょうか」

 9日に長崎市で営まれた平和祈念式典では、被爆者の本村チヨ子さん(87)=同市=が平和への誓いを読み上げた。

 ◇親族の言葉で胸にしまった被爆体験

 1945年8月9日、6歳で国民学校1年だった本村さんは、爆心地から西約4・5キロの旧福田村(現長崎市小江町)にある自宅の縁側で宿題をしていた。鉛筆が折れて祖母のヨ子(ね)さんに包丁で研いでもらおうと立ち上がった瞬間、「太陽が三つくらい落ちてくるような光」と、「ピシッ」というものすごい音が響き、爆風が襲ってきた。とっさにヨ子さんは本村さんに覆いかぶさった。

 目を開けると土煙に覆われていた。本村さんは無傷だったが、かばったヨ子さんの背中は爆風で飛んできたガラスが刺さり血だらけ。ヨ子さんは本村さんを抱きかかえ、庭の防空壕(ごう)に走った。

 ござを敷いて村人たちが昼寝をしていた家の近くの海岸は一変する。数日たっても遺体が焼かれ、「魚の腐ったような臭い」は81年たっても忘れられない。

 終戦後もヨ子さんの背中は治らなかった。傷がうずき、あおむけで寝られない日々。本村さんは少しでも良くなるようにヒガンバナで作った薬を背中に貼り看病した。一枚一枚背中に貼ると、ヨ子さんは「お前が貼ってくれるのが一番気持ちいい」と褒めてくれた。

 翌年3月、本村さんの終業式の日にヨ子さんは亡くなった。50歳だった。

 「お前がおらんやったら死なんですんだ」。親族からぼそっと言われた言葉が「十字架」となり、被爆体験は胸にしまい込んだ。

 ◇訪米で実感「話せば友だちになれる」

 平和活動を始めたのは、原爆投下から60年余りたってからだった。

 「平和というのは祈るものじゃない。守るものなんだ」。当時小学5年の孫が沖縄の平和学習から帰ってくるなり、泣きながら抱きついてきた。それまで孫にさえ被爆体験を語ったことがなかった本村さんは「幼い孫でも学んでくるのに自分は何をやってきたのか」と思った。しまっていた記憶を語る決意をした。

 2008~09年に世界で核廃絶などを訴える「ピースボート」に乗船。同年に長崎県の被爆者団体「県被爆者手帳友の会」に入会した。

 25年11~12月には、友の会の一員として訪米。原爆開発拠点となったロスアラモス研究所があり世界初の核実験が実施されたニューメキシコ州で、当時を知る住民女性のルーシー・ガーウッドさんと面会した。健康被害の実相を聞き、「米国にも同じ戦争の犠牲者がいる。話せば友だちになれる」という気持ちになった。

 真珠湾攻撃に巻き込まれた当時6歳の女性、ドリンダ・ニコルソンさんに会った時には「日本を恨んでいませんか」と問いかけた。「とんでもない。私たちの国はもっとあなたたちを苦しめた」と語りかけられ、対話をすることが大切なのだと実感した。

 パスポートの期限は来年で切れる。「もう高齢なので更新はしない。被爆者として残された時間がない」と話す中、式典で誓いを述べる被爆者代表を務めた。

 いつか天国でヨ子さんに会えたらこう伝えたい。「『命の大事かこと、戦争はやめなさいということ。平和は絶対に守ってくれんね』とみんなに呼び掛けてきたばい」【百田梨花】

毎日新聞

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