歴史伝える石垣 徳島が誇る「大水師」の城跡に建つ小学校、3月閉校

2026/01/05 15:30 

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 「海に名のある泊の殿は 水の上歩く靴がある」――。紀伊水道に突き出る徳島県阿南市の椿泊(つばきどまり)半島。その東端の「松鶴(しょうかく)城」(別名・椿泊(つばきどまり)城)には江戸時代、「水の上を自由自在に歩く」とうたわれた一族の本拠があった。今も残る石垣の上には全校児童10人の小学校が建ち、「ご先祖様」が関わった城の歴史は児童や地元の人々にとって郷土の誇りだが、今春、新たな節目を迎えようとしている。

 ◇「城下町」に小学校 校舎の土台に石垣

 椿泊半島の南岸を東へ向かって車を走らせると、S字や直角の狭小な曲がり道が点在する中、山と海の間に住宅が並ぶ。同市椿泊町の町並みには、かつて「城下町」として栄えた往時の風情も漂う。

 町並みの間に木造校舎と体育館が建つ一角があり、古い石碑に「松鶴城」と彫られていた。傍らには「椿泊小学校」と書かれた看板も掲げられている。2~6年生の児童10人が通う阿南市立椿泊小で、温かみのある木造校舎の土台部分には、藩政期の石垣が見える。

 松鶴城跡は「森甚五兵衛(じんごべえ)屋敷跡」とも呼ばれる。森甚五兵衛は江戸時代、徳島藩で阿波水軍を率いた森家が代々襲名した名前。椿泊城を本拠に、藩主が参勤交代で紀伊水道から大阪湾を渡る際、船団を先頭で指揮するなど「海上方」を務めた。

 ◇大坂の陣にも参戦

 森氏は、室町時代に阿波国(徳島県)守護の細川氏や家臣の三好氏に仕え、土佐泊城(徳島県鳴門市)を拠点に水軍を率いたとされる。1582(天正10)年、四国統一を目指す土佐(高知県)の戦国大名・長宗我部元親が阿波の大部分を平定した際、最後まで降伏しなかったのが森氏の守る土佐泊城だった。

 独立を維持した森氏は85年、羽柴秀吉の四国攻めに加わる。阿波、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)に進出していた長宗我部元親は秀吉に敗れ、領国は土佐一国となり、阿波は秀吉家臣の蜂須賀家に与えられた。蜂須賀家に仕官した森氏は、長宗我部家による阿波への再侵攻に備えて、ルートとなり得る阿波南部の抑えとして椿泊に移ったと伝わる。その後、秀吉の朝鮮出兵や豊臣家が滅亡した大坂の陣にも海を渡って参戦。江戸時代には徳島藩から約2000石を与えられ、老中に次ぐ「中老」を世襲した。

 先祖が森氏の家臣だった家に伝わる文書によると、松鶴城には、馬屋や武具蔵、船具蔵など大小40棟以上の建物があったとされる。

 江戸時代後期の館を描いたとされる絵図も残る。「椿泊森甚五兵衛屋敷海上ヨリ見ル図」(個人蔵)には、半島の椿泊湾に沿って石垣が築かれ、海に面した館の門から石段が海中に続く。徳島藩主が館を訪れ周辺でタカ狩りや船釣りを楽しんだとの記録もあり、門に面した船着き場から直接、館に出入りをしていたのかもしれない。

 ◇石垣から明らかになる歴史

 この絵図に描かれているのが、まさに椿泊小の土台の石垣だ。阿南市の前身の一つ、旧椿村の村史によると、松鶴城跡には1895(明治28)年、椿泊小の前身の尋常小学校が移転した。以来、校舎は何度か改築された。

 現在の石垣は砂岩を中心に、大小さまざまな石が不規則に積み上げられている。一方、校舎の南西端から数メートルの辺りに、石と石の境目が上下に一直線となっている箇所がある。積み方が明らかに異なるが、この箇所にはもともと石がなく、絵図で海に面した館の門が描かれた場所とされる。明治時代に門を撤去し、跡地に石を積んで隙間を塞いだらしい。

 阿南市が2006年度、校舎改築に伴い発掘調査を実施し、現在の石垣の約4メートル内側から、少なくとも東西35メートルにわたり古い石垣が見つかった。古い石垣の海側には、上の面を平らにした石段も確認された。石垣から海に降りていくような作りで、古い石垣が使われていた時期にも船から屋敷に出入りする石段があったようだ。石造りの排水路や焼けた土壁なども見つかった。

 この調査を踏まえ、推定される城館成立の経緯は次の3段階だ。

 ①1600(慶長5)年前後に、大規模な土木工事で石垣などが築かれた②その後、石段が築かれたものの、火災の被害に遭ったことから、海側(南側)に現在の石垣を築いて埋め立てることで屋敷を拡張③その際に古い石垣なども埋めた――。絵図が描かれた時期は、③の後とされる。

 2006年度の調査で見つかった古い石垣は、後世に保存するため、現在の校舎の基礎の位置を変更した上で埋め戻された。椿泊小の裏山には、かつての運動場や幼稚園跡の平地があり、屋敷の関連施設があった曲輪跡の可能性もあるという。

 06年度の発掘調査に当たった阿南市文化振興課文化財係長の向井公紀(きみのり)さん(44)は「調査で当時としては比較的高価な陶器片も多く見つかり、森一族の財力がしのばれた」と振り返る。向井さんによると、森一族は徳島藩から阿波南部沿岸の漁業権を認められ、平時の収入源として家臣団のなりわいにしていたとみられるという。向井さんは「今日の椿泊漁協は徳島県内トップクラスの水揚げ額を誇るが、森一族がその礎を築いたと言えるのではないか」と語った。

 ◇最後の卒業生、語る魅力

 「ああ大水師(だいすいし)、森氏の居城」――。椿泊小の校歌では「大水師」という「水軍」を指すいささか古風な言葉でたたえるほどに、児童や地元の人々にとって松鶴城の歴史は郷土の誇り。同小の児童らは毎年8月初め、地元婦人会の住民とともに、学校近くの道明寺にある市史跡「阿波水軍森甚五兵衛家歴代の墓」に並ぶ墓の清掃に汗を流すのが恒例行事だ。

 その椿泊小が今年3月、前身校を含め151年続いてきた歴史にピリオドを打つ。10人の在校生のうち、6年生の6人が今春に卒業すると残りは4人となるため、3月に閉校して隣接校と統合する。

 最後の卒業生となる同小6年の小川結理さん(12)は「城跡に建つ木造校舎って珍しいと思う。閉校になるのは寂しいかな」と話す。4月から隣接の小学校に通う4年の今瀬和玖(わく)さん(10)は「教室の窓から見える海は、太陽が出ているとキラキラ光ってきれい」と母校の魅力を語った。

 かつての松鶴城からも見えていた「キラキラと光る」椿泊湾の景色。森氏やその家臣団たちは、毎日どんな気分で海を眺めたのだろうか。【植松晃一】

 ◇松鶴城跡

 徳島バスの小吹川原バス停から約2キロ。城跡に建つ阿南市立椿泊小の敷地には、無断で立ち入りはできない。

毎日新聞

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