<キャンパる>戦地からの引き揚げ者の苦難伝承に尽くした元特攻兵、神原崙さん
太平洋戦争で大学生活を一度中断し、志願して軍隊入りして特攻訓練を受けた京都府舞鶴市在住の神原崙(たかし)さん(102)。出撃命令が出ずに生還を果たした後は大学で学び直し、故郷・舞鶴で海外からの引き揚げ者・復員兵の苦難を語り継ぐ活動に尽力した。そんな神原さんに激動の日々を振り返っていただいた。【中央大・功刀弘喜(キャンパる編集部)】
◇在学中に出征を決意
「人が人を統治している以上、争いはなくならない。あの頃はとにかく自分が戦わなければならないと思っていた。学生生活よりも故郷や国を守ることを優先する時代だった」。神原さんは大学を去る決意をした際の心境を、そう語った。
神原さんは1924(大正13)年、舞鶴市の比較的裕福な家庭に生まれ、両親と妹2人、弟1人と暮らしていた。神原さんが生まれる前、父は東京の商社で働きながら、中央大学に通っていた。卒業後は舞鶴に戻り、軍艦や潜水艦など海軍関連の船舶に関わる物資の仲介・納入などの仕事をしていた。そんな父から「大学に行くのなら中央に行ったらどうだ」と言われ、43年に中央大学専門部経済学科に合格し入学した。
戦争の影響が強まる中でも神原さんは真面目に勉強し、大学での授業が終わって帰ってきても机にかじりついていたという。その勉強が生かされたのが、東京・駿河台の下宿先で開かれる「討論会」だ。これは、神原さんの学生生活の楽しみでもあった。早稲田や法政をはじめ、他大学の学生も交えて、毎晩のように討論が行われていた。哲学から政治経済についてまで、討論のテーマは多岐にわたった。
戦争や出征についても話す機会があった。「戦争には行きたくない」と話す学生もいる中、神原さんは軍に入り、戦争に勝つために自らの命を投げ出すことを考えていたという。その議論は、結論が出なかった。神原さんは「たとえ戦争が罪悪であろうとも、勝たねばなお無残である」と考えていた。その上で、「自分が行かなければ、誰が家族や恋人、そして故郷や国を守れるのか」と考え、志願することを心に決めた。反対されると思い、家族にも話していなかった。
◇死を覚悟し残した形見
翌44年になると、一段と戦時色が濃くなった。神原さんは4月に「陸軍特別操縦見習士官(第3期)」の採用試験を受けた。これは陸軍が、不足する操縦士(将校)の大量補充と早期養成のため、大学や専門学校などの学生を対象に募集した兵種だ。中央大からは神原さんを含めて6人が志願し、全員合格したという。
5月に合格の通知書が届き、舞鶴に戻り両親に見せると、父には悲痛な顔をされ、母には泣かれた。心中、死を覚悟していた神原さんは実家に「自分が生きた証し」として学生帽と形見の髪の毛を残し、別れのあいさつも済ませて門出した。
東京に戻ると、今度は中央大の恩師や教官、親しい友人たちを訪ね、別れを告げた。神原さんの著書「駿河台の空は暗かった(新風舎)」には、「過ぎ去りし日々の懐かしい思い出話に哀惜を感じながら、夜の更けるのも忘れた」と記されている。
6月に上野で出陣式が行われ、その後は陸軍の航空教育機関(栃木県大田原市)でのグライダー訓練が始まった。この時、神原さんはまだ20歳だった。訓練中には事故死する仲間もいた。「同じ兵舎の仲間が乗った練習機がきりもみ状態になり、土手に墜落して亡くなった時は悲しかった。次は自分かもしれないと思った」
◇出撃命令出ずに生還を果たす
国内各地への空襲が激しさを増した45年2月、神原さんらは朝鮮半島に移動させられ、飛行訓練を続けた。5月中旬には半島北部の温井里(オンチョンリ)飛行場に配属され、敵艦に体当たりする特攻の訓練をしていた。神原さんたちが所属する第3部隊の半数は、命令で既に出撃していた。死ぬ覚悟はできていたが、命令がいつ下るのかは分からなかった。それを待つ時間が一番恐怖だった。
8月5日には陸軍少尉に任じられたが、結局出撃することなく21歳で終戦を迎えた。軍刀を持って飛行場近くの裏山の丘に集められた。終戦の1週間前、ある将校から「日本はもうダメなのではないか」と聞かされていた。自決かと思ったという。
しかし隊長から受けたのは「日本に戻り、再建に奉仕することが我々の選択ではないか」という訓話だった。しかし、中には訓話を受けてもなお、「先に逝った戦友との約束がある」と言って出撃しようとした人がいた。神原さんは懸命に止めようとしたが、言うことを聞かず自決した者もいたという。「無駄な死だった思う」とこぼした。
米軍による武装解除を受けた後、同年10月に引き揚げ第1船の雲仙丸で故郷の舞鶴に帰還した。同著書には「まさか故郷舞鶴市とは思いもよらず、全く奇遇であり、本当に嬉(うれ)しく思わず小踊りしていた」と記されている。船が港に着くと多くの人から出迎えを受けた。「負けたにもかかわらず、舞鶴の人々が旗を振って迎えてくれたこともうれしかった」
◇復学し故郷で再出発
故郷に戻った後は両親や弟、妹を養うために、薪などを集めて売りさばく「闇売り」をしながら生活していた。そして舞鶴の復興が進んできたところで、「せっかく入学したから」と、中退扱いとなっていた中央大に復学した。学校の教員を目指し、経済学だけでなく、心理学や社会学も勉強したという。
48年に中央大を卒業し、舞鶴に帰郷して連合国軍総司令部(GHQ)直轄の対敵諜報(ちょうほう)部隊(CIC)に勤務した。50年に中学校教員になったものの、7年ほどで辞めた。その後、大学で学んだ経済学の知識も生かして58年にブロック塀の施工・開発を手がける会社を設立、代表取締役に就任した。81年には地域の商工業の振興を目的とした経済団体である舞鶴商工会議所で議員も務めた。
舞鶴市は、終戦後に海外からの引き揚げ者やシベリア抑留者を含む復員兵を45年から13年にわたり受け入れた場所だった。その数は約66万人に達する。
こうした引き揚げ者・復員兵の苦難の歴史を後世に伝えるため、舞鶴市は88年に「舞鶴引揚記念館」を開館させたが、復員兵の一人である神原さんもその開館に尽力した。また引き揚げ体験を語り継ぐ「引揚を記念する舞鶴・全国友の会」(90年設立、現在は活動終了)の副理事長も務めた。
◇生存者としての使命を果たす
神原さんがこうした活動に打ち込んだのは、戦時中の自らの体験だけでなく、引き揚げ船の内外で見聞きした暴力や死も踏まえ、戦争の悲惨さを正直に伝えることを生存者としての使命だと考えたからだという。「自分は運が良かった。もしシベリアに送られていれば、生きては帰れなかっただろう」という思いもあった。温井里飛行場に残留した部隊の一部は、その後シベリア送りになったのだという。
体験者の語り部の高齢化などを受けて、2004年に舞鶴市は語り部を養成するための講座を開設。17年からは「学生語り部」の活動も始まった。現在、引揚記念館では中学生15人、高校生26人、大学生11人の合計52人が登録しており、来館者へ展示のガイドや史実を説明する活動などをしている。
神原さん自身も、次世代の若者たちに命の尊さと戦争の現実を語り継いでいくため、語り部養成のための勉強会を自宅で開いていたこともある。こうした学生語り部の取り組みに対して「自分たちの経験を若い世代が広めてくれるのは本当にうれしいし、ありがたいことだ」と称賛した。
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