亡き兄へ「みんなの活躍、見てくれるよね」 センバツ・滋賀短大付

2025/03/19 06:30 

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 大会第2日の19日、春夏通じて初めて甲子園に出場する滋賀短大付。記録員を務める広谷聖哉菜(さやな)マネジャー(3年)は、野球部OBの亡き兄・啄哉さんへの思いを胸に選手たちの活躍を見守ってきた。敦賀気比(福井)に挑む仲間を励ますベンチの中で、「みんなの活躍、見てくれるよね」と願いを込める。

 小学1年から野球を始めた啄哉さんは主に外野手としてプレー。試合になると聖哉菜さんも母香菜さん(47)らと応援に駆け付けた。香菜さんは「野球が大好きで練習も休まなかったが、レギュラーにはなれず中学以降は公式戦出場がほとんどなかった。後輩がヒットを打つと自分のことのように喜ぶ子で、試合に出てほしいと言う私とケンカになった」と振り返る。

 滋賀短大付に進学後もレギュラーには届かなかったが、ムードメーカーとしてチームに欠かせない存在だった。保木淳監督(39)は「試合に出られなくてもどんなサポートができるか考え実行する縁の下の力持ち。努力も人一倍で、練習試合で啄哉が出塁すると、とにかく盛り上がった」という。

 ◇帰らぬ人に

 2021年夏の県大会1回戦。3点を追う九回表2死から、啄哉さんは代打で高校野球生活の最初で最後の公式戦出場を果たした。「当たってでも出る」と打席に入ったが、結果は三ゴロで試合終了。聖哉菜さんは「いつも笑顔の兄が帰宅後も号泣していた。悔しさと寂しさがあったのだと思う」と思い起こす。

 啄哉さんは野球部を引退後、「いつか滋賀短の専属トレーナーになって甲子園に行く」と夢を語り、柔道整復師の資格を取るため専門学校への進学を決めた。しかし、22年1月2日、自宅から自転車で買い物に行く途中で車と衝突し、帰らぬ人となった。

 当時中学2年だった聖哉菜さんは「1週間以上、何の感覚もなかった。兄の死を受け止められなかった」という。それでも前に進もうと考えた時、浮かんだのは笑顔で野球をする兄の姿だった。聖哉菜さんは幼い頃から水泳を続け、個人メドレーの選手として推薦入学の話もあったが、「兄と同じ高校で野球に携わりたい」と決断。マネジャーとして選手を支え、センバツの舞台にやって来た。

 兄の背を追って加わったチームを「仲が良すぎるのが欠点。手のかかる弟の面倒を見ている気分」と評し、お姉さん目線でマネジャーを務めている。将来の夢は兄と同じスポーツトレーナー。甲子園での経験も糧として、目標への階段を上っていく。【礒野健一】

毎日新聞

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