千島列島・元島民の日誌発見 旧ソ連に没収されず「ほぼ唯一の記録」

2025/11/07 16:30 

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 千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島で暮らし、終戦後の1947年に旧ソ連の樺太(からふと)・真岡(まおか)(現ロシア・ホルムスク)経由で引き揚げてきた日本人男性が書いた日誌が今夏、北海道根室市で見つかった。

 米ソ間で46年12月に結ばれた「ソ連地区引揚に関する米ソ協定」では、個人の書類は、持ち帰れる物品として明記されていたが、ソ連の国境警備隊は引き揚げの現場で元島民が日本語で書いた文書や写真の大半を没収していたため、ほとんど残っていない。

 北方領土の歴史に詳しい京都外国語大の黒岩幸子教授(国際関係論)は「当事者によるほぼ唯一の記録で、貴重な一次資料だ」と評価している。

 日誌を書いたのは、76年に69歳で死去した別所二郎蔵(じろぞう)さん。占守島で生まれ、定住していた日本人で、別所さん一家6人は47年10月に引き揚げ船で函館港に帰還した。

 日誌は全体で72ページあり、真岡の収容所と引き揚げ船内で書かれた分は19ページ。薄い薬包紙で和とじされ、厚さは8ミリほど。別所さんが収容所で、記憶に基づきソ連軍が占守島に侵攻した45年8月18日から書き起こし、根室への入植初期の47年12月中旬までを記録した。

 日誌の47年2月24日未明の記録には「樺太島中知床半島の灯台を認む。早朝宗谷海峡通過。午後3時ころ真岡着。収容所満員にて上陸不能」と書かれ、日本人引き揚げ者を乗せて迷走するソ連船の動きをはじめ、天候や収容所の様子、荷物検査などについて記されていた。

 47年10月9日には「使役二日に一度、八時間ほど」と書かれ、労役の様子を記載。翌10日には「一畳に六人。三人食、一食一人黒パン六○○グラム、雑穀豚肉スープ六○○=八○○グラム、砂糖二○グラム、鰊三尾」など収容所での食事の内容が書かれていた。

 占守島は樺太千島交換条約(1875年)によって日本の領土となったが、旧ソ連軍は終戦後に占守島に侵攻。日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄し、ロシアは現在も実効支配を続けている。

 別所さんは77年に「わが北千島記 占守島に生きた一庶民の記録」(講談社)を出版しており、黒岩教授は「別所さんの著作と合わせて日誌を精査すれば、新たな事実も出てくるかもしれない」と評価し、「ソ連当局に見つかれば、没収されたかもしれない。没収覚悟で日誌を書き続けたのだろう」とコメントした。【本間浩昭】

毎日新聞

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