ハン・ガンさんノーベル文学賞から1年 「共感の糸」つなぐ日韓対話

2025/09/29 16:19 

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 韓国人作家のハン・ガンさんがノーベル文学賞を受賞してからまもなく1年。受賞演説直前には韓国で非常戒厳が発表され、小説で読んだ国家暴力の恐怖が目の前にまで一時迫った。そんな混乱の中で、ハンさんの代表作「少年が来る」の朗読会が韓国内の各地で広がり、小説から得た気づきを語り合う日韓対話にまで発展した。文学は今を生きる人たちをどう突き動かしたのか。この1年を振り返る。【堀山明子】

 ◇民主主義を守る朗読会

 「少年が来る」は1980年5月、韓国軍が民主化を求める市民に発砲した10日間にわたる「光州事件」を題材に、実際に殺害された高校1年生の男子生徒をモデルにした小説だ。犠牲者の魂に語らせ、生き残った者が背負うトラウマまで描き、民主化抗争史からこぼれ落ちてきた「声なき声」を拾っている。

 ハンさんは出版直後の2014年、公共放送KBSの取材にタイトルに込めた思いについて、10年後、20年後、30年後と、読者がゆっくり歴史と対話するイメージで付けたと明かした。小説の第1章で主人公の少年が遺体に白い布をかぶせ、枕元にろうそくをともす場面を描いたことを紹介しながら、主人公の少年が「私たちのところへ来る小説だったらいいなと思いました」とも語った。

 事件から45年近くたって、非常戒厳が再び起きた。光州事件の流血も、非常戒厳下で起きたことだ。光州市民は尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領(当時)の弾劾を求めて、今年3月12日から4月4日の憲法裁決定で尹氏が罷免されるまで連日、「最後のとりで」となった旧全羅南道庁舎前の広場で「少年が来る」の朗読会を開いた。

 「朗読会で、まさに小説の現場、歴史の現場に自分の姿が映し出されているような感覚でいました。小説の中では、遺体はお互いの名前すら知らない関係ですが、朗読会ではお互いの名前をまず確認して、1回限りの出会いかもしれないという覚悟で読みました」

 こう話すのは同市内で独立書店「少年の書」を運営し、朗読会を呼びかけたイム・インジャ代表だ。「過去に市民が闘った広場で、本を読みながら民主主義を守ろう、寒くても力を合わせて乗り切ろうと、朗読会で語った覚えがあります」

 ◇日本の読者が光州で交流

 日本では「少年が来る」の原書講読会が今年1月から2週間に1回、オンラインで開かれている。300人を定員に参加者を募集したところ、年間授業料2万2000円のチケットが10分で売り切れたという。

 読者の関心の高まりを受け、韓国関連本専門の出版社クオンは、毎年恒例の「韓国文学紀行」の行き先を光州に決め、5月30日から3泊4日で開催。原書講読会メンバーや文学紀行の常連ら約50人が参加した。

 この時期を選んだのは、光州市東区が文学をテーマにした「人文祭り」を開催しており、市民交流がしやすいからだ。ハン・ガン作品を語り合う日韓読者の夕べがメイン会場で開かれ、前述した庁舎前広場の朗読会を呼びかけたイムさんもゲストに呼ばれていた。イムさんは「『少年が来る』は、私たちが今をきちんと生きているのか、見つめるために光をともす灯台のような存在だ」と語った。

 日本側参加者も韓国語でスピーチした。原書講読会で講師役を務める稲川右樹(ゆうき)帝塚山学院大准教授は「小説の舞台である光州の広場を歩いた時、物語が自分の一部につながったような気がした」と今回の旅の成果を力説した。また、「少年が来る」に繰り返し出てくる二人称の『ノ』はだれがだれに向かって言っているのか、文脈を追っているうちに、読者である自分に向けられている言葉のように感じた」と指摘。それを日本語にしたとたん「他のだれかの話になってしまう」と原書講読の醍醐味(だいごみ)を語った。

 翻訳家の神谷丹路(にじ)さんは81年の韓国留学当時、光州事件を語ることはタブーで、外国人として何ができるか悩んだと過去を振り返り、「歴史は私たちを見ている。そのことを気づかせてくれた小説の中の一人一人に感謝する」と述べた。

 ◇「少年」はだれのもとへ

 主人公のモデルとなった文在学(ムン・ジェハク)さんの墓は、国立5・18民主墓地の一角にある。ハンさんのノーベル文学賞受賞後は、案内板も立てられた。その近くにも高校生の墓があり、民主化闘争烈士の英雄伝のイメージではおさまらない、それぞれの物語があったのではと、想像をかき立てられる。

 紀行の旅の最後の夜に開かれた日韓交流会に、犠牲者の母親らでつくる会のメンバーとして、文さんの母、金吉子(キム・キルジャ)さんも出席していた。クオンの金承福(キム・スンボク)代表から日本語訳の本を贈呈され、「小説によって世界の人たちに知ってもらえた」とハンさんへの感謝の言葉を述べた。

 文学紀行が終わりにさしかかった時、原書講読のメンバーで、「ハングル絵本多読の会」を催している在日コリアンの中本玉洙(オクス)さんが、うれしそうに仲間に光州で得た発見を語っていたのが印象的だった。

 「タイトルには、少年が私たち一人一人のところに来るという意味が含まれているのだと、やっと分かったわ。当事者でもなく、光州と縁がなくても、少年が来たから、私たちが出会って対話しているのよ」

 ハンさんは昨年12月の受賞演説で、言葉を通じて「光の糸をつなぎたい」と語っていた。糸は確実に日本の読者にもつながり、少年がそれぞれの心に光をともしている。

毎日新聞

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