「資料探しています」 市が松山城三之丸御殿復元の手がかりに

2025/10/20 08:15 

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 松山市が、松山城の二之丸、三之丸にかつてあった建造物が確認できる資料を探している。寄せられた資料を基に、三之丸御殿などが復元可能かどうかを判断する。絵図だけでなく、明治維新後に松山城を訪れた外国人が撮影した写真など、海外からの情報提供も期待している。受付は2027年3月末まで。

 松山城は、天下人・豊臣秀吉「子飼い」の武将で「賤ケ岳七本槍」の一人として知られる加藤嘉明が1602年に築城を始め、その後、松山藩に転封されてきた大名の蒲生忠知(蒲生氏郷の孫。徳川家康の外孫)が完成させたとされる。蒲生家の改易後の35年、家康の母・於大の方と久松俊勝の間に生まれた定勝の次男、松平定行(家康のおい)が入封。以降、親藩の松平家が16代にわたって松山藩主を務めた。明治維新後、松平家は旧姓の久松姓に戻り、華族の伯爵家に列せられた。

 松山城にはかつて、現存12天守の一つがある本丸と、お世継ぎなどが暮らした二之丸御殿があった二之丸、藩主の住まい兼政務の中心だった三之丸御殿や武家屋敷が並んだ三之丸があった。

 三之丸御殿は、版籍奉還後に藩庁として使われていたが、1870年に台所からの失火とみられる火災により焼失。その後、三之丸跡は陸軍用地となり、戦後は病院や野球場などが建てられた。

 松山市は、城郭のほぼ全域が国史跡に指定されている松山城跡を次世代へ受け継ぐため、保存活用計画を策定。三之丸跡にあったスポーツ施設の解体、発掘調査などを段階的に進め、史跡の価値向上を目的に三之丸御殿の復元を目指している。

 そうした中、今年5月に旧藩主家の久松家から愛媛県に対し、保管していた史料約1万6000点を寄贈するとの申し出があった。史料には、畳やふすま、床の間、庭の樹木が鳥瞰(ちょうかん)的に表された三之丸御殿の一部を描いた絵図もあり、復元に向けた大きな弾みとなった。

 市公園管理課の西本義明主幹は「ささいなことでもいいので連絡してほしい」と呼びかける。集まった資料を基に、専門家の意見や発掘調査の結果を鑑み、復元が可能か複合的に判断するという。

 求める資料の対象となる建造物は、三之丸御殿の他、三之丸にあった北御門、東御門、内堀、土塁と、二之丸跡にあった黒門、栂門、槻門。建造物の状況が確認できる古写真、古文書、絵図、図面などを探している。

 市職員が出向いて確認する可能性もあるため、現物の持ち込みではなく、事前連絡を希望している。問い合わせは同課の電話(089・948・6546。平日午前8時半~午後5時15分)か、メールアドレス(kouen-kanri@city.matsuyama.ehime.jp)まで。【狩野樹理】

毎日新聞

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