芝の栽培で日本一の茨城 地形だけではない、その理由とは?

2026/01/01 09:30 

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 民間シンクタンクが2025年に発表した都道府県の魅力度ランキングで茨城は46位。最下位こそ免れたものの、調査が始まった2009年以来、下位から抜け出せない。果たして本当に魅力がないのだろうか――。取材してみると、知られざる魅力を支える人たちがたくさんいることが分かった。茨城の「いいとこ」を探してみよう。

 筑波山のふもとにある、茨城県つくば市作谷の集落。研究学園都市として知られる市中心部からは10キロあまり離れ、青々とした芝畑が一面に広がる。

 茨城は、芝の栽培面積が約3000ヘクタールを誇る日本一の産地だ。そのほとんどがつくば市にある。

 起伏がない台地で、水はけや日当たりがよい――。芝の生育に適した条件がそろっていることが理由の一つだが、それだけではない。

 実は、ここにはかつて軍事基地があった。1940年に開設された「西筑波陸軍飛行場」だ。

 滑走路はコンクリートで舗装されていたが、他の敷地は芝で覆われていた。パラシュートで降りて奇襲をしかける落下傘部隊や、滑空して兵士や物資を運ぶグライダー部隊の訓練に使われた。

 終戦後、飛行場は撤去された。食糧増産のため、引き揚げ者などによる開拓団が組織され、次々に入植していった。

 この地で芝を生産・販売する「芝良」会長の松本良吉さん(94)もその一人だ。

 福島県に生まれたが「何の仕事もないし、農業をやろう」と開拓団に手を挙げた。終戦の翌年、飛行場の兵士だった兄を頼り、14歳でこの地に入植した。

 ところが、飛行場の芝をはがして農地に作り変えたものの、そこはやせた荒れ地だった。

 農業指導員に教わりながら、借金をしていろいろな作物に挑戦した。サツマイモ、麦、桑、綿――。だが、どれもろくに育たない。

 3俵植えたジャガイモは、1俵しか収穫できなかった。牛や豚を飼って、ふんを肥やしにしてもダメだった。

 金を使い果たし、借金取りが毎年のように押しかけた。「昼は別の集落まで徒歩で通って働き、夜に戻って畑仕事をした」(松本さん)という苦しい生活。約70戸あった入植者は約50戸に減った。

 転機は、20代の頃にNHKのラジオ番組で、こんな話を聞いたことだ。「日本も経済的に楽になり、ゴルフ場が増えている」というのだ。

 ゴルフ場には芝が要る。「飛行場を覆っていた芝なら育つはず」と考え、30戸あまりの入植者を説得。芝を扱う東京の業者に頼み込み、代金を前借りした。

 58年、ついに芝の作付けが始まった。

 「芝なんか食べられない、失敗したらどうする」。始めはそんな声もあったが、育った芝は麦やコメよりずっと高く売れた。

 30戸、50戸、100戸……と、芝を扱う入植者は毎年のように増えていった。

 松本さんは64年に個人で創業し、芝の販売も手掛けた。ゴルフブームの到来に合わせて規模を広げ、全国に造られるゴルフ場を飛び回った。

 暑さや寒さ、乾燥にも耐えるように品種改良された芝は、つくば姫、つくば輝、つくば太郎など、「つくば」の名を冠してブランド化された。ゴルフ場のほか、グラウンドや河川堤防、宅地などに活用されている。

 「いろんな苦労があったけど、芝をやってよかった」。松本さんは振り返る。

 ただ、悩みもある。

 バブル崩壊後、ゴルフ場はほとんど造られなくなった。さらに深刻なのが、担い手の不足だ。

 芝良が現在、芝を生産する農地の約3分の1は借地だ。後継者がいない農家が増えたため、その農地を芝良が借り上げているという。生産をやめ、太陽光パネルに置き換えた農地も増えている。

 松本さんは2015年、会社の近くの一角に「筑波芝発祥の地」と刻んだ石碑を建てた。担い手が減り続ける中、苦しかった入植の歴史を後世に残そう、との思いからだ。

 碑にはこうある。

 「この土地は痩せ地で収穫は儘(まま)ならず、生活は困窮の限界に至った。芝に受けた恩恵は計り知れず、芝に感謝し記念碑を建立する」【酒造唯】

毎日新聞

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