<キャンパる>玉砕の島・硫黄島 生還を果たした兵士の生き様が教えるもの

2026/08/19 08:00 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 1945年2月、小笠原諸島に位置する硫黄島で日本軍と米軍による「硫黄島の戦い」が勃発した。この戦いに従軍し、捕虜となって生き延びたのが故・秋草鶴次さん(2018年、90歳で死去)だ。戦後、鶴次さんは従軍経験を2冊の著書に記すとともに、各地で講演を重ね、悲惨な戦いを語り継いできた。鶴次さんの長男である秋草茂之さん(68)に、生前の父の人柄や自らの経験を語り続けた意味について話を伺った。【早稲田大・菅野潤(キャンパる編集部)】

 ◇ほぼ全滅の中で果たした生還

 硫黄島は面積約23平方キロしかなく、総兵力約11万人で押し寄せた米軍は「5日で落とせる」と踏んでいた。しかし島を守備する約2万2000人の日本軍は地下に立てこもり、36日間にわたり組織的抵抗を続けた。この激戦によって、日本軍は約2万1900人、米軍は約6800人の死者を出したとされる。

 鶴次さんは、17歳の時に海軍通信兵として硫黄島守備に当たった。戦闘で右手や左脚を負傷したため、当時いた玉名山地区の最後の総攻撃に参加できず、壕(ごう)に取り残され意識を失っていたところを米軍が発見。捕虜となりながらも一命を取り留めた。

 ◇「本当に賢い」人

 戦後、46年1月に帰国した鶴次さんは、故郷である群馬県矢場川村(現・栃木県足利市)へ戻った。硫黄島から生還できた日本兵はわずか約1000人で、鶴次さんはその一人だった。戦場で右手の指3本を失っていたため就職は難航したが、通信兵時代に身につけた技術を生かし、東武鉄道の電気部門に就職した。

 戦後の鶴次さんの暮らしぶりについて茂之さんに伺うと、親子の資格取得をめぐるエピソードを語ってくれた。鶴次さんは電気技師の資格はもちろん、整体や栄養士など、数多くの資格を取得し、証明書をずらりと部屋に掲げていたという。茂之さんも負けじと資格取得に励んだが、中には父が取れても自分は取れなかった資格もあり、「あの人は本当に賢い。おやじに勝てるのはかけっこくらい」と笑いながら当時を振り返った。

 ◇戦友の死を無意味にしない

 鶴次さんが自身の従軍経験を初めて公の場で語ったのは、06年夏に放映されたNHKスペシャル「硫黄島玉砕戦―生還者61年目の証言」だった。そこで鶴次さんは、硫黄島で亡くなった戦友たちについて、「死んで意味があったのかは分からない。でも、無意味にしてしまってはかわいそう」という趣旨の話をしていた。

 鶴次さんはまた、復員後に書きためていた原稿に何度も推敲(すいこう)を重ね、同年12月に従軍手記「十七歳の硫黄島」(文芸春秋)を刊行。生還者が極めて少ない硫黄島の戦いの貴重な証言者として注目を集め、その後全国各地で自身の経験を語るようになった。父の講演に同行した茂之さんは「父は何かを訴えるというより、『こういうことがあったんだよ』って話すだけ」に見えたと振り返る。

 鶴次さんは講演の台本を一切用意せずに、硫黄島の地形や標高、戦況などを客観的な数値とともに説明し、自らの経験についても感情を入れず淡々と語っていたという。

 鶴次さんは、講演や旅行で全国各地に行く度に、その土地の神社仏閣に足を運んだ。特に、戦友の故郷にある神社仏閣はすべて訪れていたという。鶴次さんは行く先々で「あなた方のおかげで、あれから日本は戦争をしていませんよ。ご苦労さまでした」と静かに祈っていたそうだ。その影響か、茂之さんも小学生の頃、父に渡されたお経の教本を丸暗記したという。

 ◇胸中に秘めた思い

 一方で、鶴次さんは家庭で戦争について語ることはほとんどなかった。負傷した時の様子や捕虜としての生活など、茂之さんがふと気になって質問すれば答えてくれるものの、詳しく聞こうとすると「すごいだろ?」などとごまかされてしまったそうだ。そのため、硫黄島での経験を詳しく知る機会は、父の講演に同行した時くらいしかなかった。

 家族に戦争について多くを語らなかった理由について、茂之さんは「感情的になるのを避けたかったのではないか」と推測する。当時の出来事を思い出せば動揺し、涙があふれてしまい、とても冷静に語れる状態ではなくなるからだという。戦時中の鶴次さんを知る親戚らも、当時については「かん口令でも敷かれているんじゃないかと思うぐらい」皆一様に忘れたふりをしていたと茂之さんは振り返った。

 茂之さんによると、戦争を生き抜いた人々は「体験者」と「経験者」の二つに分けられる。体験者とは徴兵されなかったものの本土で空襲や疎開を体験した人々、経験者とは実際に戦地に赴き戦闘に加わった人々を指す。茂之さんは、「体験者は積極的に戦争の記憶を受け継ごうとする人が多い一方で、経験者はその壮絶な経験を多くは語ろうとしないのではないか」と話す。

 ◇「生かされた」からこその務め

 しかし、鶴次さんは「経験者」でありながら、自らの経験を著書や講演を通じて語り続けた。茂之さんはその理由を、「父はよく『自分は生かされた』と言っていた。その意味を自分なりに考えた帰結があのような活動だったのではないか」と考える。

 鶴次さんは11年に刊行した自署「硫黄島を生き延びて」(清流出版)で、戦場で散華した命はこの世の平和を支えている、我々は平和を託されているのだと訴えた。鶴次さんを突き動かしたのは、生き延びた自分が自らの経験を書き記し、語り継いでいくことが、戦友の死に報いることだという思いだったのではないだろうか。

 鶴次さんは同書のあとがきに「正しい戦争、聖戦などといえるものが本当にあるのだろうか?」と書いた。茂之さんも「戦争は、良いか悪いかではない。合っているか合っていないかだと思う」と話す。父子に共通しているのは、戦争を善悪だけで語るのではなく、戦争という選択が本当に正しかったのかを問う姿勢にあるように思えた。

 茂之さん自身は、戦争を経験していない世代が必ずしも戦争の記憶を学ばなければならないとは考えていない。「知りたいと思ったら、自ら学べばいい」と話す。生前、鶴次さんは家族に戦争についてほとんど語らなかった一方、戦争体験をまとめた著書の原稿は自宅の目につくところに置いていたという。茂之さんは、その姿勢を「知りたかったら読めばいい、という父なりのメッセージだったのでは」と受け止めている。

毎日新聞

社会

社会一覧>