<キャンパる>戦時下の劣悪環境を生き抜いたハンセン病患者 平沢保治さん回想

2026/09/30 08:00 

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 13歳でハンセン病と診断され、1941年に14歳でハンセン病療養所に入所した平沢保治さん(99)。それ以来85年たっても、生家に戻れたことはないという。施設内では日中戦争、太平洋戦争も経験した。戦時下のハンセン病患者の状況を知る数少ない証人として、当時の生活について話を伺った。【東京外国語大・江藤心晴(キャンパる編集部)】

 ◇日米開戦直後に入所

 平沢さんは1940年にハンセン病と診断され、「1年で治る」と言われて翌年12月、生まれ育った茨城県から東京都東村山市のハンセン病療養所、多磨全生園に入所することになった。中国との戦争が泥沼化する中、日本が新たに米国とも戦争を始めた直後だった。

 多磨全生園は、療養所という名目ながら、その実態は強制的な隔離の場所だった。入所者の人権は著しく制限され、選挙権は実質的に剥奪されていた。当時、同園には約1300人が入所しており、平沢さんは少年寮に入った。平沢さんによれば、1人につき1畳半ほどの狭いスペース。「蚊はいるしノミはいるし、それからシラミもいるしね。生活環境はすごく悪かった」

 長らく「不治の病」とされたハンセン病。患者への差別的対応が強まったのは昭和の初めごろだった。29年にハンセン病患者を強制的に収容させる「無らい県運動」が始まり、31年にはそれが癩(らい)予防法(53年にらい予防法に改正)として確立される。全国各地にハンセン病患者を収容する療養所が設けられ、現在も多磨全生園をはじめ国内に13カ所存在する。戦後に治療法が確立され、差別的対応の法的根拠だった同法は96年に廃止されたが、ハンセン病に対する偏見は今も社会に根強く残っている。

 ◇擦り減る心と体力

 平沢さんが戦時中の食事で思い出すのは、とにかく粗末だったということだ。「麦7割米3割。あとはイモやダイコンの葉を干したものを混ぜて、茶わん1杯ほどの食料が1食1杯ほどしかなかったものだから、みんな栄養失調で毎日のように死んでいった」

 79年には多磨全生園自治会が編さんした全生園の70年間の歴史をまとめた書籍「倶会一処(くえいっしょ)」が刊行された。同書によると、当時の死因は慢性腎臓炎、肺結核などとされていたが、実際には食料や物資の極端な欠乏によって十分な処置がなされず、栄養失調で死んでいった者が大半を占めていたという。

 医療品などの物資も不足していた。「包帯がないから女の人の浴衣を切って代用していた。何回も洗濯して伸ばしてね」「不便を解消しようと無断で外出すれば、牢屋(ろうや)や群馬の施設の重監房送りにされる」。平沢さんはひと言ひと言、かみしめるように話してくれた。

 社会から厳しく隔離しておきながら、戦況が厳しくなると米軍機の攻撃による犠牲者や負傷者の収容や片付けに入所者がかり出された。「所沢の方に柳瀬川という川があって、そこの橋が爆撃を受けて、200人ほどがケガを負った。その片づけをする人がいないから、私たち園内の若い人たちが行った」「村で負傷した人が園に運び込まれてきたのだけれども、その人の声が園内中に聞こえるくらいにわあと言って……。あれが地獄の声だなと思った」。入所者の心と体力は擦り減っていくばかりだった。

 ◇社会的には完治していない病

 終戦の日の45年8月15日、「重要な放送があるからと、園内の礼拝堂に入所者たちが集められた。そこで玉音放送を聞いた」。この瞬間、どのように感じたかについては「我々はどうなるのか、殺されてしまうかもしれないと大変怖かった」と振り返った。

 戦中と比べて戦後の生活は「地獄から天国へと変わった」と話す。「(米国で開発された治療薬)プロミンによって、ハンセン病は治る病気になった。それから、選挙権を得たからね。『自分たちの生活をこうしてほしい』って国や国会に訴えることができたんだよね。だから、やっぱり治療薬と選挙権の二つは、戦争に負けて我々が得た宝物だね」

 50年には範子夫人と結婚した。しかし結婚の条件として、旧優生保護法(96年に母体保護法に改称)の規定に基づき、現在は憲法違反とされる断種手術を受けることを余儀なくされた。そうした過酷な体験を後世に伝えていくために、国立ハンセン病資料館(東村山市)の設立にも大きく携わり、「語り部」としても活動してきた。

 しかし、戦争が終わって治療薬が普及しても、らい予防法がなくなっても、社会に蓄積されてきた偏見や差別感情が消えるわけではない。平沢さんは戦後も多磨全生園で暮らし、生家に戻れたことはない。母親は入手困難な治療薬の確保に尽力するなど寄り添ってくれたというが、彼女の葬式にも参列できなかった。「私たちにとって、生まれた家は宇宙のどこよりも遠い。手の届かないところだ。ハンセン病は治る病気になっても、社会的には絶対治ってはいない」

 ◇お金では解決しない罪

 多磨全生園の敷地は約35万平方メートルと驚くほど広大で、人間の声よりも風や虫の音の方が響いた。自然いっぱいの園を歩く中で、今もひっそりとたたずむ長屋や寮を見て、胸が締め付けられる思いがした。同園の入所者は43年のピーク時の1518人から2025年時点で88人に減少しており、施設の存続についてさまざまな検討がなされている。

 平沢さんらが国へ訴え続けたことで、患者に対しては最大1400万円、家族に対しても最大180万円の補償金が出ることになったが、「お金をいくら積んでもね、やはり犯した罪は元に戻るわけじゃないからね。物事はお金じゃ解決しない」。これは、戦争についても同じことが言えるのではないだろうか。取材中、「戦争を二度としてはいけないよ」と平沢さんは繰り返した。

 都心から離れた緑豊かな地で、平沢さんの言葉が静かに、それでいてずっしりと重く深く響いた。記憶をたどるように話をしてくれた中で、平沢さんが時折うつむいて沈黙するその間が、ひどく長いものに感じられた。

毎日新聞

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