「国民の役に立つ時が来た」サリン事件、若き自衛官の緊張と高揚
向かった先は東京都心の地下鉄駅、任務は猛毒の神経ガス・サリンの無害化――。30年前のあの日、未曽有の事態と対峙(たいじ)した陸上自衛隊。その中に20歳前後の自衛官たちがいた。当時を知る最後の現役世代となった彼らの脳裏に今も残る光景とは。
◇背中を押した一言
「いよいよ、32連隊が国民の役に立つ時が来た。ご承知の通り、地下鉄駅でサリンによる事件が発生した。我々の任務としてはその除染に向かう」
1995年3月20日午後2時40分過ぎ、東京・市ケ谷の駐屯地。陸自第32普通科連隊の福山隆連隊長(77)=2005年退官=による訓示が行われた。約200人規模で編成された除染部隊の「出陣式」でのことだ。「頼むぞ」。部隊を力強く送り出した。
オウム真理教による地下鉄サリン事件は午前8時ごろに発生し、約5時間後、東京都知事が自衛隊に「災害派遣」を要請。化学防護隊の幹部と共に出動を命じられたのが、32連隊だった。歩兵部隊に当たる普通科連隊は北海道から沖縄まで各地に配置されており、その中で唯一、JR山手線の内側を拠点としていた。
前年の夏に入隊し当時19歳だった小川哲哉さん(49)=2曹=はあの日、「頼むぞ」の一言に背中を押されたのを覚えている。自分に何ができるだろうか……と戸惑っていたが「頼まれたんだ、しっかりやらなければ」と気合が入った。
この訓示には伏線があった。約2カ月前に起きた阪神大震災で、自衛隊は出動が遅いと非難された。「いよいよ……時が来た」との文言は、それを念頭に置いたものだった。
◇隊舎のバケツで「100回混ぜよ」
サリンは営団地下鉄(現東京メトロ)の丸ノ内線と日比谷線、千代田線にまかれ、除染部隊は霞ケ関と後楽園、日比谷、小伝馬町、築地の5駅に派遣された。
装備品はガスマスクや防護服、酸素ボンベのような見た目の携帯除染器など。除染作業に使うデッキブラシやモップ、水切りワイパー、プラスチック製のバケツも32連隊の生活隊舎からかき集められた。普段は洗濯物入れとして使われ、隊員の名前がペンで手書きされているバケツもあった。
車両などに散布して無毒化する除染剤には「カセイソーダ」(水酸化ナトリウム)を選択。霞ケ関駅に派遣された当時21歳の牟田康彦さん(51)=曹長=は、水を張ったバケツに粉状のカセイソーダを入れ、むら無く溶けるように棒でひたすらかき混ぜた。調合の割合を忘れても「100回混ぜよ」という上官の指示は忘れなかった。
駅構内につながる階段の踊り場で装備品を着用していると、手袋のサイズが合わず、とっさの判断で地上へ引き返した。恥ずかしさもあったが「相手はサリン。皮膚からも体内に吸収される。『手が入らなくてもいいや』では済まされない」と思った。
同じく霞ケ関駅に派遣された当時23歳の小貫太郎さん(53)=1曹=の記憶には、「これから突入します」と強い口調で報道陣に説明する上官の姿が残る。「上官について行くほかない」。極度の緊張の中、そう覚悟したと振り返った。
◇ガスマスク越しに見えたもの
「本番では訓練していないこと、自分では考えもつかないことが起きる」と話すのは、内田健さん(54)=准尉=だ。当時24歳。除染部隊を運ぶ大型トラックなどの車列で、先頭車両の運転を任された。
事件現場から車庫へと移動した電車の除染を命じられ、急きょ、霞ケ関駅から千葉県の松戸車庫に向かう道中でのこと。自衛隊の車列は警視庁のパトカーに先導されていたものの渋滞にはまり、一般車が車列に割り込むなど思うように進めない状況に陥った。
すると、運転席の脇を白バイが走り抜けていった。その数、数十台。前方の交差点を次々と封鎖し、身動きが取れなくなっていた車列を助けてくれた。
内田さんは運転席にいて除染作業には直接関わっていない。それでも「自分は非常時の任務をやっているんだ」と高揚感に包まれた。
連隊長の言葉に背中を押された小川さんは、後楽園駅で除染作業に従事した。
人影がなく「異様な静けさ」の漂う中、ガスマスクを着けてサリンがまかれた電車に乗り込み、水切りワイパーを動かし続けた。上官の指示を聞き漏らすまいと終始無言で没頭し、別の隊員とぶつかったり、水が急にかかったりする度に「ドキリとした」。
ただ、緊迫した現場で小川さんの印象に残ったのは意外な光景だったようだ。
ふと顔を上げ、開け放たれた車窓から外を眺めた。ガスマスク越しに見えたのは「普段と変わらない街のあかり」だった。「任務が終われば帰れる場所がある」。力が湧いてくるのを感じたという。
すべての除染部隊が駐屯地に帰隊したのは翌21日未明。留守を守った隊員らが隊舎前に集まり、拍手で迎えた。全員無事だった。
◇
14人が死亡、6000人以上が負傷した地下鉄サリン事件。物々しくガスマスクを装着した自衛官たちが地下鉄車両内に並び、一心不乱にデッキブラシで床をこする――除染の様子は写真とともに伝えられ、記憶に残る人もいるだろう。
今回取材に応じたのは、当時も今も32連隊に所属する現役の自衛官たちだ。その一人は「あの日の自分」と同年代の後輩たちに向け、こうメッセージを語った。「何か一つ芯を持っておけば、想定外の事態でもうろたえず、臨機応変に対処できるのではないか。それが何か、実は私自身も探っているところだ」
あの現場に立った自衛官たちはあと数年で、全員が退役を迎える。【松浦吉剛】
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