<キャンパる>「ルーツを忘れてはいけない」インドネシア残留日本兵子孫の思い
太平洋戦争でアジア諸国に送り込まれた日本兵の中には、終戦後に日本に帰国せず、現地に残ることを選んだ人々がいる。「残留日本兵」と呼ばれる彼らは、現地でどんな役割を果たし、その子孫らは今、彼らとその祖国である日本にどんな思いを抱いているのだろうか。独立宣言から今年で80年となったインドネシアを訪問し、子孫の方々に話を伺った。【田野皓大(キャンパる編集部)】
◇英雄墓地の一角に
インドネシア独立記念日の8月17日、首都ジャカルタの大統領官邸や独立記念塔の前の広場では独立記念式典が行われた。市民らはインドネシアの国旗の色である赤と白の服を身にまとい、街中の建物なども紅白の布で彩られ、祝福ムードで大変な盛り上がりぶりだった。
そんな中、ジャカルタにある国立カリバタ英雄墓地の一角で、残留日本兵をしのぶ合同の墓参りが行われた。同墓地には、旧宗主国オランダとの間で勃発したインドネシア独立戦争(1945~49年)で戦死した兵士や、政治家、市民など独立に功績のあった約9700人が埋葬されている。
そのうち28人は、独立戦争でインドネシア人と共に戦い、戦死した残留日本兵だ。彼らを慰霊するこの催しは2021年から行われている。今年は残留日本兵の子孫のほか、日本政府関係者やインドネシアに駐在する日本企業の従業員とその家族など、約70人が参加した。
残留日本兵のお墓は、街中の人々の装いと同じく赤白の花がまかれ、鮮やかに彩られた。子孫や参列者たちは線香を供え、静かに手を合わせていた。
◇残留した理由はさまざま
太平洋戦争中、日本はインドネシア(旧名称・オランダ領東インド)を1942年から約3年半にわたり占領統治していた。45年8月15日に日本が降伏すると、同17日には、独立運動のリーダーで後に初代大統領、同副大統領になるスカルノとハッタが独立を宣言した。
その後、植民地支配を復活させようとしたオランダとの間で独立戦争が勃発。日本の降伏後もインドネシアにとどまり、独立戦争でオランダと戦った残留日本兵(一部民間人も含む)は約900人にのぼり、そのうち500人以上が戦死した。生き残った三百数十人のうち約40人が日本に帰国し、残りの約300人がその後もインドネシアで暮らしたという。
降伏後に多くの日本兵が軍を離脱し、日本に帰らなかったのには千差万別の事情があった。戦後に残された残留日本兵の証言などによると、独立の趣旨に賛同した人もいれば、軍への不満を抱えた人や戦犯になるのを恐れた人、日本での働き口のあてがなかったという人もいた。
しかし独立戦争に参戦した英雄的な残留日本兵がいたとしても、インドネシアを占領した日本に向けられる国民の目は厳しかった。生き延びた残留日本兵たちの中には、戸籍がないゆえになかなか職に就けず、苦しい生活を余儀なくされた人も少なくなかったという。
ただその一方で、インドネシア社会に溶け込んで影響力を発揮した人も多く、のちに日系企業の進出や、日本との友好関係の礎を築いた功績は大きいとされる。2014年には最後の残留日本兵であった小野盛さんが94歳で死去した。
◇世代を超えて語り継ぐ
こうした歴史を次世代へ伝え続けるのが、ジャカルタに本部を置く「福祉友の会」だ。同会は、独立戦争参加後もインドネシアで暮らした残留日本兵ら107人の発起人によって発足した。設立当初の目的は、残留日本兵相互の連絡や生活困窮者の支援など。79年の設立以来、世代交代を経て現在も活動を続けている。今回の慰霊する会も同会が主催した。
現在、インドネシアで暮らす残留日本兵の子孫は、15年の同会の調査データで約3000人いるとされる。同会の現在の主な活動は、これら子孫の3~4世に日本語や書道など日本の伝統文化に触れるワークショップを開くこと、インドネシアに駐在する日本人に同国の文化を伝えること。そして同国を訪れた日本人に残留日本兵の足跡を語る活動などを行っている。日本からは年間約300人の政府関係者や社会人、学生などが訪れているという。
23年には、残留日本兵の歴史を継承することや、インドネシア人と日系人の交流の促進などを目的に同会の活動拠点を改装し、残留日本兵に関する展示を行うギャラリーや交流スペースを設けた。
◇報われない「英雄」に複雑な思い
現在、事務局長を務めるのは残留日本兵4世のヨガ・クスマ・ウエダさん(26)。既に活動に参加していた兄や姉に誘われ、21年から活動に加わり、大学卒業後の24年から事務局長を務めている。ヨガさんが残留日本兵の4世だと知ったのは20歳の時。家にあった家系図などを通して知ったという。
曽祖父は岡山県出身の上田金雄さんで、上田さんは海軍に所属し、中国の満州、フィリピン、インドネシアに駐屯した。ヨガさんによると、上田さんは日本の降伏後、現地のインドネシア人の日本人に対する反感に申し訳なさなどを感じ、インドネシアにとどまってオランダ軍と戦う道を選んだ。家族や周囲の人には、当時のことはほとんどなにも語らなかった上田さんだが、生前「死んでいった仲間に申し訳ない」と言っていたという。
インドネシア独立のために戦い、戦死者も出しながら、同国内で称賛されることもなく、生活苦にあえいだ多くの残留日本兵たち。曽祖父のことを知り残留日本兵について調べていくなかで、ヨガさんはそうした事実を知り「複雑な気持ちになった」と語る。
実際、独立戦争後にインドネシアでは残留日本兵について学校などで教えることはなく、ほとんどの国民が存在自体を知らないのが現状だという。現在、福祉友の会に残る残留日本兵の当時の様子がわかる記録は、82年から98年までの16年間に残留日本兵たちが自らの体験などを記した200号の月報のみ。ヨガさんは「残留日本兵についての書籍は日本には多く存在するが、インドネシアには存在しないため翻訳などをして残していきたい」と語った。
◇学ぶ場を増やしたい
福祉友の会の理事長で同じく4世のミアガ・プアナ・タナカさん(33)の曽祖父も、日本敗戦後、インドネシアに残留しジャワ島で独立戦争に参加していた。ミアガさんは建築士を本業としていることから、会の拠点の改装をきっかけに2021年に参加したという。23年には、インドネシアを訪問した天皇、皇后両陛下がカリバタ英雄墓地で供花し、残留日本兵の子孫を含む在留日本人と懇談された。ミアガさんは「残留日本兵の存在が少しずつ知られていることがうれしい。彼らも天国で喜んでいるのではないか」と話した。その上で「会のネットワークは政府関係者、日系企業など広く、このネットワークを今後活用して日本とインドネシアの交流を活発にしていきたい」と語った。
活動の中心が3世、4世へと移るなかで、残留日本兵のことをもっとインドネシア人、日本人に伝えたいとミアガさんは言う。そして、「福祉友の会のように残留日本兵について勉強する場を今後も提供していくことが大切だ」と今後の活動の意義を語った。同会の会長で残留日本兵2世のヘル・サントソ・衛藤さん(65)も「私たちはルーツを忘れてはいけない。次の世代に活動をつないでいかなくてはならない」と話した。
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