厳しい状況も「冒険だった」 歯舞群島の元島民、樺太の収容所脳裏に

2026/01/25 08:45 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 「これを見ると思い出すね」

 北海道旭川市に住む歯舞(はぼまい)群島・水晶島の元島民、高塚正勝さん(2025年11月18日死去、当時89歳)は2025年に公になった北方領土からの引き揚げ船の「乗船名簿」を手に語り始めた。

 セピア色の名簿を見て脳裏に浮かんでいたのは、水晶島から北海道への引き揚げ時に経由した場所。

 1947年11月の樺太(からふと)(現ロシア・サハリン州)の光景だった。

 雪がちらついていた。

 故郷の水晶島は北海道根室市の納沙布(のさっぷ)岬から北東7キロに位置し、終戦時には約1000人が暮らしていた。

 祖母と両親、姉妹5人、高塚さんの9人家族。

 父はコンブ漁に従事し、馬を25頭飼っていた。

 コンブの最盛期には出稼ぎ者やその子供であふれる、にぎやかな島だった。

 終戦の知らせを聞き、多くの島民は脱出を試みた。

 しかし、根室から見て反対側に住んでいた高塚さん一家は「家族も多いし(逃げるのは大変)。どうにかなるべ」と島に残留した。

 45年9月、旧ソ連軍が島を占領すると、高塚さんの家にも銃をかついだソ連兵が乗り込んできた。

 「珍しさとおっかなさ半分」でのぞき込んでいると、ソ連兵が意外な行動をとった。

 ためてあった風呂の水をゴクリゴクリと飲み始めた。

 「相当喉が渇いていたんじゃないかな」

 祖母は山のふもとでくんだ飲料水を差し出した。

 軍隊長が高塚さんの家に住むことになり、一家は隣の空き家に移った。

 父は水晶島から北東に10キロほど離れた志発(しぼつ)島の缶詰工場に働きに行かされた。

 不自由はあったが、楽しかった思い出もある。

 毎日のようにロシア人の子供と遊び、隊長の家で昼食で黒パンやスープをごちそうになった。「ロシア語はペラペラだったよ」

 食料が尽きてきた2年後、一家は志発島に集められ、強制退去させられた。

 乗り込んだ船は、根室とは違う方向に進んでいった。

 途中で病死した人が毛布にくるまれ、「ドボン」と海に落とされる音も聞いた。

 船は樺太に到着。降りしきる雪の中、港から高台にある収容所まで歩かされた。

 疲れ切った祖母は「私はここで死んでもいいから置いて行け」と言う。

 家族は縄で互いを縛り、なんとか収容所にたどり着いた。隣人の隊長からもらった長靴にも助けられた。

 「あれは恐ろしかった」と振り返るのは収容所の便所。

 沢に何枚か板をわたしただけの場所だった。

 板が尿で凍り、滑って落下して亡くなった人がいると聞き、気が気ではなかった。

 47年11月、日本の引き揚げ船「千歳丸」で函館港に引き揚げた。その後の生活は波瀾(はらん)万丈だった。

 父は根室で鉄道会社に就職したが、解雇されて旭川に移った。

 高塚さんは家計を考えて高校に進学せず、文房具問屋や魚屋、営林署などで働いた。

 75年の墓参などで訪れた古里はかつてとまるで違っていた。

 水晶島に住民はいない。

 ロシアの警備隊が駐留していた。

 「この島には住めない。帰れても帰らない」

 割り切れない思いはあるが、人生を悲観していない。

 「島から引き揚げてきて冒険だったな。苦労したけどよく頑張った」

 これまでの歩みを自らねぎらった。【森原彩子】

 ◇「乗船名簿」からたどる人生

 戦後80年の2025年、樺太経由で1947~48年に北方領土から引き揚げた約8800人分の「乗船名簿」が見つかった。関係者の証言を紹介する。

毎日新聞

社会

社会一覧>