元東電社員が地元・栃木で里山再生 震災後の福島赴任をきっかけに

2026/03/11 17:10 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 東日本大震災から15年。当時、東京電力社員として足利市で働いていた田中浩唯さん(61)=栃木県佐野市多田町=は2013年7月、志願して同社福島復興本社に赴任し、3年3カ月にわたり、福島第1原発事故の賠償業務や、避難住民の依頼を受けた家屋の処分などに従事した。その後、早期退社し、地元の奥佐野で里山再生に取り組む田中さんは「被災地に身を置き、自分に何ができ、何をやりたいのか探していた。再生について考えるきっかけになった」と福島での経験を振り返った。

 ◇赴任当時も全町避難

 旧葛生町(現佐野市)生まれ。東電の技術者養成校「東電学園」(東京都日野市)で学び、修了後に東電へ就職。佐野、小山市など県南エリアで新築物件の配電設備の検査などを担当していた。

 原発事故時は足利営業センター勤務。同じ会社にいながら現地の情報は入らず、テレビの前で祈るしかなかった。当事者企業の一員という感覚は希薄だったという。

 福島県行きのきっかけは、社内イントラネットで紹介されていた福島復興本社の活動。「違う環境に身を置いて自分を試したい」と異動を希望した。

 最初の1年半は福島市の補償相談センターで賠償業務を担当。避難指示区域外の商工業者から、休業や風評による被害の訴えを聞き取り、逸失利益を算定して東電に請求した。15年2月には希望した復興本社復興推進室に配属され、同県浪江町で支援にあたった。

 福島第1原発から20キロ圏内の同町には避難指示が出され、赴任当時も全町避難が続いていた。人のいない町には雑草が生い茂り、住宅はイノシシに荒らされていた。線量計を身に着け、道路や墓地の草を刈った。

 家屋清掃で入った住宅では、子供部屋に学用品や玩具が避難時のまま残され、冷蔵庫の食材は腐臭を放っていた。置き去りにした飼い犬の死骸の処分を頼まれることもあった。帰還を断念した住民からの依頼で解体した家屋は100軒を超えた。

 「事故の責任は会社にある。被災者と接し、しんどいこともあるかと思ったが、むしろねぎらってもらえた。復興推進と言いながら被災地の再生にはつながらない業務を繰り返す中で、いつか自分の手でできることで地域貢献したいと思い始めた」

 ◇「金に換算できない価値を共有できる場所」

 次の異動では残留を希望せず、16年10月に栃木県内に転勤。翌年3月、34年間勤めた東電を辞めた。退社後は林業を営む友人を手伝い、再就職した砕石会社では新事業だった県立公園内の下刈りや植林に従事。重機や林業機械の講習も受けた。

 「森づくりには興味があった。近所の山主さんは管理できない里山を自分の代で処分したがっていた。手を入れ、地域の財産として活用できないか」

 やるべきことを見つけた――。そう感じた田中さんは19年6月、砕石会社を辞め独立した。山主に声をかけて森林経営計画を策定し、20年からは補助金を活用しながら下草やササの刈り払い、間伐や倒木処理、作業道の整備などを進めた。

 小規模間伐で山を管理する自伐型林業の体験講座を開くなど住民以外にも門戸を広げ、23年には受け皿となる「奥佐野農泊推進協議会」を設立。さらに24年からは佐野市のNPO法人「エコロジーオンライン」(上岡裕理事長)と協働し、生物多様性、森林整備、建築などの専門家を講師に迎えたワークショップ「里山コモンスクール」を開いている。

 独立から6年、任された里山は18ヘクタールに広がり、施業した林は間伐などで明るくなった。斜面は小枝や落ち葉を積む「ボサ」で保全され、腐葉土からは広葉樹も実生し始めた。

 田中さんは「大事なのは里山を通じたコミュニティーの再生だと感じている。人と人がつながり、金に換算できない価値を共有できる場所。そんな里山にしたい」と前を見据える。【太田穣】

毎日新聞

社会

社会一覧>