原爆投下後の広島に追い打ち 観測史上に残る「枕崎台風」から80年

2025/09/13 19:33 

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 1945年9月、原爆投下から間もない広島を襲った「枕崎台風」の被害から、17日で80年となる。観測史上に残る巨大台風の死者・行方不明者は全国で計3756人に上り、その半数以上が広島県に集中した。原爆を生き延びた人々に加え、被爆者の診療や調査で訪れていた京都大の教員や学生ら11人も犠牲となるなど、廃虚と化した広島に追い打ちをかけるように甚大な被害をもたらした。

 台風は45年9月17日、鹿児島県枕崎市付近に上陸し、その日の夜に中国地方を横断した。広島では最大瞬間風速45・3メートルの暴風に加え、激しい雨によって各地で土砂崩れや洪水が発生し、死者・行方不明者は2012人を数えた。

 台風の被害から80年になるのを前に13日、広島県廿日市市で京大主催の慰霊の集いが開催された。5年おきに開かれてきたが、前回はコロナ禍で中止されたため、10年ぶりとなる。

 「祖父は一刻も早く治療しようと思い、広島へ向かって亡くなった。家族には悲しく言葉にならない出来事だった」。犠牲となった京都帝国大(現京大)医学部の真下俊一(ましもとしかず)教授を祖父に持つ大井千世さん(69)=京都府宇治市=が遺族代表であいさつした。

 犠牲となった11人は、京大原爆災害総合研究調査班のメンバー。陸軍の要請で、45年9月3日から大野村(現廿日市市)にあった大野陸軍病院を拠点に、被爆者の診療と原爆被害の調査をしていた。

 17日夜に発生した土石流で病院は押し流され、11人に加え、被爆して負傷した入院患者ら計156人が犠牲となった。調査班が現地で収集した被爆した患者のカルテや標本などもほとんどが失われたという。

 病院があった場所の近くで開かれた慰霊の集いには、遺族や京大の湊長博学長ら約80人が参列し、11人の氏名が刻まれた碑の前で冥福を祈った。大井さんは祖父について、責任感が強く思いやりを持って診療していたと家族から聞いたという。「80年がたち、記憶は薄れていくが、祖父らが広島に向かった時の思いを引き継いでいきたい」と語った。

 台風被害が広島で拡大した要因の一つに、原爆による情報の途絶があるとされる。原爆投下時、爆心地から3・6キロ離れた広島地方気象台に大きな被害はなかったが、職員の多くが被爆。放射能被害などによる体調不良を抱えながら、定時観測を続けた。枕崎台風についても観測データを集めたが、原爆で通信網が寸断され、ラジオや新聞も復旧途上で多くの市民に巨大台風についての情報は伝わらなかった。【井村陸】

毎日新聞

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