「避難しようと伝えることができれば」 能登地震・豪雨犠牲者を追悼

2026/01/02 14:19 

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 2024年元日の能登半島地震発生から2年となった1日、被災地では石川県主催の追悼式があった。同年9月の豪雨災害と合わせて、犠牲となったのは718人(災害関連死含む。1日現在)。式典会場だけでなく、遺族らはそれぞれ思い出の場所で祈りをささげた。「どうぞ安らかに」。そして願った。「二度とこんな悲しいことが起きないように」【竹中拓実、中尾卓英、島袋太輔、岩本一希、衛藤達生】

 ◇避難所で心臓発作、帰らぬ人に

 県主催の追悼式典は昨年に続き、輪島市の日本航空学園能登空港キャンパスで行われ、時折強く雪が降る中、遺族約230人と来賓約100人が訪れた。

 揺れと津波で甚大な被害を受けた同県珠洲市宝立町に住んでいた谷内田(やちだ)玲子さん(66)は、夫宏幸さん=当時65歳=の供養のため訪れた。地元区長をしていた宏幸さんは発災当時、地区外にいたが、責任感から地元に戻り、住民と一緒に自主避難所へ。発災8日後の夜、外の仮設トイレに行こうとして、心臓発作で倒れ、帰らぬ人となった。

 「避難所の内外で温度差がひどかったから」と玲子さんは振り返る。2人で住んでいた自宅は解体され、この日は県南部の能美市のみなし仮設住宅から訪れた。「出席は気の重いところもあるけど、こういう場を設けてもらえた。少しでも追悼できたら」と唇をかみしめた。

 あの元日の夜、輪島市街地で車中泊した当時96歳の女性は、翌2日、車から降りる際に転倒して骨折。ヘリで搬送されたが、起き上がることができないまま老衰で亡くなり、災害関連死と認定された。追悼式に出席した長男夫婦は「いったんは高台避難したが、避難所ではトイレに行くのも難しかったから」と当時の過酷な状況を振り返った。

 式典には、同年9月の豪雨災害の遺族も招かれた。輪島市町野町寺地地区で土砂崩れに巻き込まれた中山公さん=当時82歳=と、はるみさん=同=夫妻は近くの人が手を引っ張って引き上げるなどしたが共に亡くなった。

 度々帰省していた能美市の孫夫妻は、公さんとはるみさんにとって「ひまご」にあたる3姉妹を連れて参列。孫の妻、村田瑞穂さん(34)は「1階は土砂で埋まっていたけど、無事だった2階にいてくれたら助かったのに」と涙をにじませて語った。

 「私のことも自分の孫のように接してくれました、この子たちにも川の魚を取ってきて見せてくれたり、本当に優しかった。まだ亡くなった実感がないんです。感謝の言葉を伝えたい。会いたい気持ちでいっぱいです」と娘たちを抱き寄せ、言葉を詰まらせた。

 式典では、政府代表として参列した赤間二郎防災担当相が「高市政権発足後、被災地を訪問し、被害の甚大さを実感した。復旧・復興の取り組みを全力で進めていく」などとあいさつ。地震発生時刻の午後4時10分に全員で黙とうした後、参列者が順次、祭壇に献花した。

 式典後に記者団の取材に応じた馳浩知事は「より強じん化したふるさとを作っていく思いを新たにした。震災の記憶を風化させないよう継続して取り組んでいく」などと復興方針を示した。

 また、遺族代表を務めた中山真さんは式典後、「来年も追悼式に参加したい。1月1日にやっていただきたい」と希望を語った。

 ◇自宅は全壊、再建矢先に姉亡くし

 追悼式では地震で自宅が全壊し、豪雨で姉美紀さん(当時31歳)を失った輪島市町野町の中山真(しん)さん(29)は遺族代表の言葉を述べた。姉を亡くした悲痛な思いと復興に向けた決意を語った。

 全文は次の通り。

  ◇

 能登半島地震の発災から2年、奥能登豪雨から1年あまりを迎える今日、このような追悼の場を設けていただき、深く感謝申し上げます。遺族を代表し、ごあいさつを申し上げます。

 私は輪島市町野町で、両親や祖父母、そして姉の美紀と暮らしていました。特に、姉とは、休みが合えば必ずと言っていいくらい一緒に映画を見に行き、いつもくだらない話で心の底から笑い合っていました。しかし、2年前の地震で自宅は全壊し、日常が崩壊しました。それでも私たちは支え合い、生活を再建しようと頑張っていました。

 そして、地震の約9カ月後、奥能登豪雨が私たちを襲いました。豪雨当日、姉の携帯に何度も避難を呼びかけようと電話をかけましたが、つながりませんでした。行方不明となった姉を連日必死に捜索し、ようやく亡くなった姉を見つけ、火葬後に骨を拾い上げた時、「本当にいなくなってしまったんだ」という現実を痛感しました。

 いつも笑顔で、避難所でも周りを明るく励ます「太陽」のような存在だった姉。その別れは、私たち家族から光を奪い去り、私たちは深い悲しみと絶望に打ちひしがれました。そしてあの時「危ないから一緒に避難しよう」と伝えることができていればという後悔に何度も押しつぶされました。

 そんな中、私が前を向くきっかけとなったのは、昨年2月、町野で災害FMを始めるための実験放送を見に行ったことです。ラジオを通してたくさんの人とつながることができる、そして何より「私と同じ後悔を誰にもしてほしくない」という想(おも)いで、パーソナリティーに志願し、現在は、地域の方々に支えられながら、毎日「まちのラジオ」で生活情報や避難情報を発信しています。

 今後も、ラジオを通して、私と同じく、今回の震災や豪雨で大切な人を亡くした悲しみを抱える方に、「あなたと一緒に乗り越えます」と寄り添いたい。「姉も空の上から聞いてくれている」と信じ、これからもラジオを続けていくことが、姉への弔いであり、地域の皆さんへの恩返しであると考えています。

 最後に、これまでたくさんのご支援と励ましをいただいた皆様に心より感謝申し上げます。そして、この度の震災と豪雨でお亡くなりになられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げ、能登の復興を願いながら、遺族代表の言葉とさせていただきます。

毎日新聞

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