<読む写真>「救助界のゴッド」だった父ちゃん 同じ道歩む娘 思いは世代超え

2025/12/25 16:00 

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 「消防車に積んでいるホースは何メートルあると思う?」。12月上旬、神戸市垂水消防署(同市垂水区)の見学に訪れた小学生たちに問いかけた。声の主は同署の山本奈緒消防士長(38)。父は阪神大震災が発生した当時、被災地で消防士として奔走し家に戻れなかった。さみしい思いをした山本さんだったが、今はその父と同じ道を歩んでいる。

 1995年の震災当時は小学1年生。兵庫県稲美町の実家で、二つ上の兄と2階にあった子ども部屋で寝ていた。初めて経験する大きな揺れ。「ふとんの中にもぐっとけ!」。父雅文さんが叫んだ。1階では6歳下の妹と母が寝ていて、家族の無事を確認すると、神戸市消防局の航空機動隊員だった雅文さんは地震発生から1時間後には家を出ていた。ヘリコプターから連日、被災地を空撮し記録する役目だった。地上で救助活動をしたい気持ちを押し殺し、任務を遂行した。

 「父ちゃん、おらんようになったんかな」。地震から2週間ほど山本さんは父の姿を見なかった。毎日家族そろって食べていた夕食にもいない。被災地を映すニュースが流れ「父ちゃんここで頑張ってるんやで」と母に言われてもピンとこず、不安が押し寄せた。しばらくして日常が戻ったが、その時期は覚えていない。「母に心配をかけてはいけないと思い、気持ちにふたをしていた」

 雅文さんは同僚をよく自宅に招いていて、山本さんにとって消防士は身近だった。小学校低学年のころ、雅文さんが消防出初め式でヘリからロープ1本を使い降りてきた。「かっこいい!」。小学校の卒業文集には「消防士になりたい」と記していた。中学卒業後は雅文さんの勧めもあり、兵庫県立舞子高校環境防災科に進んだ。

 同校を卒業して1年間は予備校に通い、2007年に念願の神戸市消防局へ入庁した。「やっと父ちゃんと同じ仕事に就けたな」。長田消防署や西消防署で消防査察などを担当し、その後、消防局司令課にいたころ父と無線でやり取りすることがあった。呼び掛けに応える父の声を聞き「照れるけど何かうれしいな」と感じた。14年に介護施設職員の男性と結婚し16年に長女結衣(ゆい)さん、18年には次女望結(みゆう)さんが生まれた。産休、育休を取りながら消防音楽隊に所属。フルートを担当し、家で練習していると長女から「ママは演奏する人やったん?」と聞かれた。もどかしさが募った。一度は夫に「子どもができたら火災現場での仕事は諦める」と伝えていた。だが「私自身も父の背を見て育ってきたので、子どもに消防士の姿を見せたい」と思うようにもなっていた。夫に相談すると「言うと思った。やりたいようにやればいいよ」と応援してくれた。

 一方、人生を先導してくれた父との別れは突然だった。17年1月22日、一人で自転車のロードバイクに乗り同県姫路市を訪れた帰り、心筋梗塞(こうそく)で倒れた。61歳だった。救助の世界では有名だった雅文さん。「救助界のゴッド」の異名を持ち、05年4月のJR福知山線脱線事故では事故翌日に現地に入り混乱する現場を統率した。偉大な父の死は「あまりに急で今も受け止められていない」。

 22年4月には垂水消防署消防防災課に異動し、火災現場の最前線に立つようになった。上司の石井敬一郎・消防司令補(59)は「いろいろと経験があり、よく気がつく」と評価する。同署の総員約150人のうち、平時から火災などの現場で活動する女性は3人。泊まり勤務は月10回あり、育児は夫や実家と協力し合う。今夏、火災現場でガスボンベが次々と爆発し、恐怖を感じた。各地で大きな地震がある度、「これが神戸で起きたら私は子どもを実家に預けて出勤するんや」と不安も感じる。一方で、今なら父が取った行動も理解できる。次女は小1で震災当時の山本さんと同じ年齢だ。子どもたちには「災害があって仕事に行っても、必ず帰ってくるからね」と伝えている。

 長女は24年の七夕に「ママみたいな消防士さんになりたい」と願いを書いた。世代を超えて思いは継承されている。震災から31年となる来月17日には、毎年している地震の話を子どもたちにするつもりだ。「怖い時、つらい時は声に出していいよ」。悲しい思いはさせないと決めている。【大西岳彦】

毎日新聞

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